1974年2月3日、横浜生まれ。神戸、根岸、などを経て小学3年生の時にシンガポールに渡る。多民族国家で育ち、侵略した国の子供と見なされながらも、シンガポールの人達の社会の中で可愛がられながら育つ。
20歳の時にアメリカに渡り大学院まで卒業した後、作曲家として、ヤマハの音楽教室の講師として生活するも、故郷日本の事が次第に頭を支配するようになり、30歳になる時に23年ぶりに日本に帰って来る。
とりあえず住み始めた日本の都会には23年前の淡い匂いと優しさの薫る日本の風景はなく、気軽にかけていた「こんにちは」の挨拶も、電車やバスの中で見知らぬ人とのたわいもないちょっとした会話も、困っている年寄りにさりげなく差し伸べる手も、とってもとっても少なくてっていて、その割に便利な物だけは世界一ありふれている故郷日本がどうしても好きになれず、けど、生活の為、せっかく帰ってきたのに逃げ出したくなかった為、テレビの音楽作ったり、コマーシャルの音楽作ったりしてお金に困る事はなかったが、心はどんどん病んで行き、最後には外にでるのが怖くなった。
引きこもり中にたまたま見たテレビで寅さんをみた。頭の中にあるあの懐かしい風景と、人の感覚。いつの間にかたくさんの涙が出て、旅をする事が今の自分を救う唯一の方法だと思い込み、三ヶ月くらい悩んだあげく、シンガポールにいるお母さんに電話。「昔っから三日坊主で、何やっても続かないんだから、いい加減大人になりなさい!!」と怒られて諦めるのを期待してたのだが、お母さんは「あら、それはまさくんらしくていいじゃない!!お金はあるの???こんな時の為に貯めてあるお金少しあるからいざという時には使いなさい。」そんな意外な言葉を受け、2006年の10月15日、東京都中野区沼袋にあったスタジオ兼マンションを閉め、放浪の旅に出る。
阪神淡路大震災で亡くなった加藤貴光(うしくん)の手紙との出会い、そしてその母の加藤りつこ(お母ちゃん)との出会い。そして日本中にいる田舎を愛し、古き良き日本を時代の流れに逆らってまで守ってきてくれた僕のヒーロー達、仲間達のお陰で、3ヶ月の計画だった放浪の旅がいつの間にか10年経ち、あんなに頑なで優しさが消えていた心が溶け、昔のような目に戻り、ちいさなまさくんの事を大事にしようと思える優しい人間に戻る事ができました。
大人のくせに、今でもお母さんといい、自分の音楽会を「まさくんの音楽会」という、恥ずかしさもあります。けど、僕はそれでも自分の事をまさくんと言えるちいさなまさくんでずっといたいです。
2018年10月1日に胃がんが見つかり、胃の全摘手術をするも転移が見つかり胃を残したまま、腹の傷の痛みと抗がん剤の副作用とうまく付き合いながら12月から音楽会の旅を開始。高額医療制度、病院のありがたさ、そして仲間達と家族のありがたさを改めて感じ、この恩を帰したり送ったりするべく、さらに無償の美しさ、無我の清らかさ、心の豊かさを求めて小さな音楽会をこれからも続けて行きます。
0コメント